甘ったれクリーチャー

甘くて酸っぱい言葉をかましたいお年頃

宿題残したまま

若林正恭『完全版 社会人大学人見知り学部卒業見込み』読了★★★★★。納得のいかない社会とのズレと、過剰な自意識をメタ認知しながらも変化に向き合う若林のコラム集。大丈夫と言うところから大丈夫が始まる、という文で思わず涙腺が緩んだ。内面を書いてる時に綺麗事を言わないだろう若林のこの文言に救われた人は多いんじゃないだろうか。

つい最近学年がひとつ上の友人Aに進路相談(キャリアって言葉が適切なのかもしれないけど使いたくない)をする機会があった。友人は僕に深く考えず今の課程の方面に進むのはどうかと提案した。僕は高校の頃からの将来の夢がある。でもいきなりその道に進むより他の道で1度色んな体験をしてからという将来設計がぼんやりとあった。まぁ身も蓋もなく言えばいきなり夢を追うだけの覚悟も度胸もなくて、ましてやその理由もなくて、他の分野も経験したって事実が欲しかったのかもしれない。

A「ってか正直、○○系(ぼかしておくが、有名大の学生が結構目指しそうな分野)は向いてないんじゃない?」

傲慢な僕は反射的にムッとする。でもこれは正しいんじゃないかと思える。僕は0から何かを生み出せる人間じゃない。幼少期、周りがレゴで自由にものづくりを楽しんでた時僕は付随の設計図の通りに完成させることに勤しんでいたし、中学時代の美術の時間に至っては風景画以外の絵を描けと言われてもぼんやりと画材を見つめるだけで授業が終了したことがある。極めて頭の回転が速いわけでもカリスマがあるわけでもない。ケチをつけるのは好き。みんなの前に立って行事の運営方針を決める生徒会に対して、「お前ら前に立って乏しいアイデア披露するだけでなんでそんな偉そうな顔できるの?」と感じていた。部活も当然キャプテンなんかじゃない。

そんな僕でも、僕に支えられていると言ってくれる人がいる。頼ってくれる人もいる。大事にしたい。

A曰く僕は「目指してるところは向いている」らしい。じゃなかったら目も当てられない。なんかその分野に失礼な気がしてきた。

レゴが自由じゃないのは今も変わらない。でも自由に生み出さないことが向いている。別に自由にレゴでクルゥイエイティヴゥに遊びたいなんておもっていない。やりたいことは別にある。それで大丈夫だと思った。それが「理由」になった。思い通りに生きられる生き物に変わった。画材はほんとうにそれが要る人に渡そう。他人が0から作ったものにケチをつけよう。ケチの結果、モノが良くなったら、その人は僕が支えたことになる。そのことを分かってくれる人を大事にしたい。

 

レシピを見ずに料理を作りたいかもしれない。